■ 女中太平記 初古(はつこ)
白鳥(しらとり)、初古、福助(ふくすけ)、といえば、K温泉若手芸妓の中で、三羽鳥といわれた売れっ妓であった。とりわけ初古は、年若く踊りの立姿(たちすがた)の美しいことで、評判をとっていた。素平の経営する梅花亭も座敷などにはまず入らなかった。その初古が、どういう風の吹き回しか、梅花亭の女中になりたいと申し込みがあった。
話を持ち掛けた相手というのが、戦前から検番の電話番専門に暮らしてきたK温泉の生字引の六助老人であってみれば、まんざら思いつきの話でもなさそうだった。
しかし、バーのホステス、それに芸妓くずれは、旅館の女中には使えないというのが、業界の常識だし、素平も今までにいくたびか手痛い失敗をしでかしていた。食膳の上げ下げ、布団敷きから持ち部屋の掃き掃除、といった地味な仕事は、酔客相手のちゃらちゃらしたその場限りの稼業に一度でもそまった女には、まず無理だった。骨を折る割には、稼ぎは知れていて、男と三、四度寝れば、それぐらいの稼ぎはたやすく手に入れられる、温泉宿という環境にも問題があった。
「検番への払いは良いし、女中の躾もまあまあだし、こぢんまりまとまった日本調の旅館だから」というのが六助老人の触れ込みだったが、後で番頭さんがうっかり漏らしたところによると、「亭主が変わり者で、一風ある旅館」というのが、梅花亭に向けてきた本音のようであった。大阪魚市場通いの港町の、魚ダンプの運転手と世帯を持つのを機会に、芸妓の足を洗いたいという、いささか古風な心意気に、素平の女房の幾代が乗り気になった。幾代は女中頭のお兼(かね)を熱心に説得し、面喰いの素平もそれとなく賛成して「長い目で見る」という結論を口実に、ともあれ売れっ妓初古は、梅花亭上女中純子としてお目見えする運びとなった。
もっとも、芸妓時代の前借りの残りは、案じた程の額ではなかったから、幾代が亭主に内証で用立てたのだが、骨細(ほねほそ)で、抜けるように色白の純子が、まつげの長い瞳をいささか翳らせて、宿おしきせの濃紺のウール地の着物に、白い前垂れを締め、臙脂の帯をそれでも小粋に着こなした日から、女中達の新参いびりが始まった。
籠の中のカナリヤが、大空に舞い出たとたん、ずんぐりした働き者の雀たちに、寄ってたかって、小突き回されるのに似ていた。襟のつき方、胸高(むなだか)な帯の締め方、平素控え目で、気立てのやさしいと見えていた女中までが、「そねえな裾引きこずった着つけしんさったら、半日も体がもたんえ。女中商売は、裾さばきが一番やもんね」とまるで、おかみか、女中頭のような口ぶりだった。箸のあげおろしまでもというけれど、一息ついて、配膳室の片隅で、艶(えん)な仕草で煙草の煙を吐いたとたん、「女中なら女中らしい煙草の吸い方ちゅうがあろうにさ」と洗い場の婆さんに文句を付けられた。純子といえば、その都度口答えもしないで、言いつけ通りにするいじらしさであった。
新参を上女中にいきなりあげるというのも、梅花亭のこれまでのしきたりになっかた。経験者でも、半年なり一年なり、食膳運びと、皿洗い専門の仲番(なかばん)をやってから座敷に上がるのが順序だった。昨日までの売れっ妓を、いきなり皿洗いにするのも酷で、亭主やおかみが同情したのも、女中達の嫉妬に油を注いだ。いくら売れっ妓でも、所詮芸者は芸者で、自分達とは違うという女中達の見識も判らぬではなかったから、亭主といえども、うかつに口出しはならなかった。 ←
見識といえば妙な見識もあったもので、純子がかつての同僚芸者の入っているいる席に、酒を運んだりする時、酔いにまかせて、「男に惚れないのが芸者の意地で、男に惚れるなんて、ど素人の屑のすることさ」などと、客の前で純子を口ぎたなくののしる芸者もあった。さうがに絶えかねて、灯の消えた宴会場の片隅で、忍び泣きする姿が幾度か見られた。きれいにセットされた髪も、早番に当たった時など、洗い髪のまま無造作に束ねられだしたのは純子になって一月も経たなかった。初古時代の贔屓客も、彼女のなりふりかまわぬ男一途の変りように、三月もすると、自然と足が遠のいた。言いつけられた仕事には「はいはい」と素直に従う純子の顔から、初古時代の艶冶な色気が薄れ、かわりに、二十歳過ぎの娘らしいあどけなさが浮かぶこともあった。
三月に入った頃から、無断で休む日があった。芸者時代の怠け癖が出はじめたのか、使いを出して様子を見させると、顔を腫らして寝込んでいるという。あれはきっと、亭主にぶん殴られたせいだと、見てきた者の報告があった。
痴話喧嘩の果てにしては、相当に乱暴者のようであった。女中仲間の情報によると、男は以前大阪で、組関係に関わりがあったそうで、最近では麻雀賭博で家を明けたりするという話であった。そんな噂がひろまると、昨日まで意識的に意地悪した女中達が申し合わせたかのように、なにくれとなく純子を庇うのであった。外に世帯を持つ彼女は早発(はやだち)客の朝食時間に遅れて出勤することがままあった。すると、番頭やおかみから文句が出ないうちに、女中同士で、誰とはなく代役を買って出るのだった。素直な純子の人柄のせいもあったが、女中達は本能的に純子の結婚の不幸を嗅ぎ当てているようであった。
純子の体にはいつも新しい痣ができていると、一緒に入浴する女中の口からささやかれていたが、ついぞ純子の口からは、亭主への愚痴は聞かれなかった。
「困ったことがあったら、なんでも相談して」と女将の幾夜が案じて声を掛けても、頑なに話には乗ってこなかった。
一日も早く一人前の上女中になろうと努力している姿から、彼女の男への思いが痛々しく感じられる毎日であった。亭主への心中だてのつもりか、客席では一滴の酒も口にしなかったし、祝儀をはずまれても、踊りはおろか、唄一つ歌わなかった。観光客に女中の誰かが、純子は以前芸妓で出ていたなどと陰口をきく者があっても、客は信じなかった。
あれは純子になってひと月ほどした吹雪の夜であった。その晩は遅くまで宴会客がたてこみ、女中たちが仕事を終えたのは、十二時をまわっていた。そんな時刻まで素平が帳場にいるのも絶えて久しい事ではあったが、耳まであかくそめた純子が、聞きとれない程かぼそい声で、「燗番(かんばん)に酒を五合ばかりわけて貰えるよう許可して下さい」と素平に申し出た。酒屋が閉まっていて、主人の寝酒が買えないと言うのである。
素平から受け取った一升瓶を胸にかき抱くようにして、襟巻き頭をすっぽり包んだ彼女が、「おやすみなさい」と弾んだ声を残して吹雪の外へ消えたのを、たとえようもなくいじらしいものに素平は記憶している。
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梅花亭の女中として、純子は八ヶ月と十日勤めた。半年も続いたから、この分だと案外本物かも知れぬと、淡い期待を抱いた矢先に、彼女は一夜のうちに世帯をたたんで、行方知れずとなった。
女将の幾代はかなりこたえたようすで、わけもないことで女中を叱ったりした。出奔するほんの数日前に、相当な額の現金を彼女に用立てたばかりであった。石見の在にいる老母が病気で急に入院するからまとまった金が入用だとの借金の口実も、紋切型であった。女中達からは同情され、素平からは、その人の好さを、ひとしきりからかわれ、幾代は立つ瀬がなかった。
やっぱり芸者上がりは・・・と夫婦共々これも経験の一つと悟り、日常の忙しさにかまかけて、純子のことなど忘れかけていた一年の余も過ぎたある日、お義理にも上手とは言えないたどたどしい文字で、幾代宛に純子の手紙が届いた。不義理への詫びであった。
挨拶もせずに発ったのは、亭主が博打に負け、そのかたに再び芸妓にでるよう、相手から強要されたからだとあった。K温泉を出奔した二人は、亭主の古巣の大阪に出た。男は工事現場のダンプの運転手、彼女はアルサロのホステス、お定まりのそんな明け暮れも、半年と保たず、男は新しい女を作り家に寄り付かなくなった。子供でもいたらと、必死の思いで生んだ子も、生まれて三日目に死んだ。亭主そっくりの男の子で、泣くためにこの世に生まれでもしたように、三日三晩泣きずくめ、今でもその声が空耳に聞え、可哀相でなりません、元気になったら、お借りしたものは必ずお返しにあがります、と結んであった。
産後の肥立ちが悪く一月余り寝込んだ様子であった。幾代は二人目の子供を身篭っていたから、他人事には思えず、幾許かの見舞金を包み、早く元気をとりもどすようにと手紙した。二人のそんなやりとりを、純子の返礼の手紙を見せられるまで、素平は一向に気づかなかった。余りに人情話めいていると内心不服で、「ほどほどにしておくことだな」と渋面を作ったが、妊婦のことゆえ、それ以上は強く言えなかった。
中学の女生徒が使うような、赤と白のチューリップの花模様の印刷などが散らしてある返信には、概要次のように記されてあった。
奥様のお手紙は、今の私にとってどんな高いお薬より、やしないになったか判りません。
私のような不実者には、もったいない程、暖かい心こころづくしに存じます。子供が死んだと報せても、電話一つ呉れない夫の事を思うと、これからさき、どう生きて良いやら、途方に暮れた毎日でした。でも私の心にも一筋の光がさして来ました。もう一度、芸妓に出たい、本当にそう思うのです。幸薄い私のこれまでの一生の中で、K温泉でお座敷に出ていた頃が、一番なつかしく、晴れがましく思い出されます。これから先、芸妓として、ずっと踊り続けることが何よりの幸福に思えるのです。ですから、夫のことは恨みがましく思わないことにしました。結婚生活にあこがれたのは、私の方ですもの。こうしてペンをとっていても、泣けてくるのは、自分の愚かさが悲しいからです。悪い夢を見たと思えば、あきらめもつきます。結婚生活は、子供の頃からの夢でしたが、私みたいなめぐりあわせの女には、夢は夢でしかなかったのですね。男で苦労したり、悲しい思いをするのは、私に限ったことではありません。私の知っている限りでも、幸福になった例は、ほんの数えるばかりです。僅かばかりの結婚生活でしたが、私は私なりに、精一杯、夫につくしました。その点では思い残すことはありません。別れた後も、夫には幸福になって欲しいと思います。
手紙には、秋になったらもう一度、K温泉にもどり、初古で出ますから、昔同様、可愛がってくださいと結ばれてあった。子供を失った感情のたかぶりからか、少しつくり話めいた内容に思えたので、K温泉でもう一度芸妓勤めをしたいという話を、素平は本気にしなかった。しかし、現実に彼女は以前籍を置いていた山口席から、源氏名も昔通りの初古で、二度目の勤めに出ることになったのである。
前借で作ったのか、彼女のお披露目の前日、かねて準備していらしい心斎橋おき宗の桐下駄一足を添えて、女将の幾代に借金の全額を返済した。山が紅葉うる多忙な季節だったので、女中一同に配られた初古心づくしの正絹の半襟も、女中部屋の話題をさらうまでには到らなかった。幾代の話だと、やつれがひどく、あの分では売れるまでには、大分苦労しそうだとのことであった。
年が改まって間もなしに、梅花亭では、思いがけぬことから、女中部屋ががたついた。古参女中の一人が、酔客の一夜妻に、初古を世話したことが、素平の耳に入ったからだった。梅花亭では、芸者を泊めることは御法度(はっと)になっていたから、外の旅館に世話したのだったが、僅かな期間でも同じ釜の飯を食べた人間に、客をとらせる女中の神経が、素平には我慢がならなかった。当人を呼びつけ、事情を聞くと、その夜は若い妓が売り切れていて、それで初古に無理を言ったのだと、事もなげに答えた、純子になる以前の初古は、客を取らなかった。「梅花亭のことなら、どんな無理でもきくわ」と初古は気軽に応じたというのである。美世(みよ)という女中に、幾代の静止も聞かず素平は、即刻、他館に移るよう命じた。これまで例のないことだったので、女中達は動揺した。客に一夜妻を世話することで、女中達は幾許かの謝礼を手に入れる仕組みになっていたが、その収入の途を絶たれると感違いしたのだった。金銭に関する限り、女中達は貪欲(どんよく)であった。女中を一堂に集め、素平はみじめな気持で、事の道理を説かねばならなかった。
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不幸は招くものではなく、向うから勝手にやってくるものらしかった。桜の自分になって、最近初古が売れ出したと聞いていたのに、踊りの稽古帰りに、初古が見習調理師の暴走車にはねられたのだった。三人連れで歩いていたのに、初古一人が宙を舞って路上にたたきつけられた。温泉街の色あせた昼下がりの、白昼夢のような一瞬の出来事だった。病院に運ばれた初子は、両足の大腿部複雑骨折と、後頭部の内出血で何日も意識が無かった。多少とも情の移った相手の無残な姿を見るのがいやで、幾代は見舞いに、二の足を踏んでいた。半月しても、初古の恢復について、はかばかしい噂は聞かれなかった。意識はどうやら戻ったけれど、頭をやられ、治っても廃人同様だろうという話を耳にしては、幾代もさすがに病院に出向かないわけにはいかなかった。これがあの初古かと疑うほど、幾代の目には彼女がしぼんで映った。幾代を見るなり、「姉ちゃん!」と呼んではらはらと涙を流した。「姉ちゃん、私(うち)、いまとっても幸福(しあわせ)よ、お腹の中で赤ちゃん動くんがわかるんよ」幾代はとまどったが、実の姉に間違えられているのを知った。「父ちゃんにも、交通事故なんぞ起こさんよう、気いつけんさいと言うとるの。疲れてかえりんさるから、冷酒がおいしいんですって」初古はベッドの上で、痩せ細った腕を伸ばし、口三味線で調子をとりながら、しきりに踊りの所作を繰り返した。シャンリン、シャンリン、チャチャリチャチャチャン。「そのうち子供が幼稚園に上がるでしょう、稼がなくっちゃ!」遠いところを見るような眼差しの初古の瞳は、痛いほど澄んでいた。別れ際、幾代に、「姉ちゃんも、しっかりしいや」と声を掛けながらも、自分は天井を向いたなり、付き添いも無い病室で、シャンリン、シャンリンと、口三味線をつづけていた。